ここから本文

町長室へようこそ No.14

「100年祭」

100年祭の記念品として電波時計が各戸に配られましたが、開拓の鍬が入ってから100年という大きな節目を迎え、これからも時を刻み続けることから選ばれたものです。今回は時をさかのぼり、郷土史研究家である故滝本由雄氏(当時住民課長)が昭和39年(1964年)に地元紙の「瀧上新聞」に町史夜話として掲載した記事の中から興味ある話を紹介したいと思います。

滝上に和人として最初に開拓に入ったのは、明治38年(1905年)に高知県人であります西森亦吾氏ですが、西森氏以前、留萌から来たアイヌ人柳田初太郎が明治34年(1901年)頃から渚滑川、サクルー川合流点のあたりで一人で鮭を取って暮らしていた。春の夕暮れ時、小屋で横になっていた柳田初太郎に初めて訪れた人がいた。後の滝上町長になる高知県出身の朝倉義衛19歳、上渚滑からの帰り腹が空いて食べ物を貰いに寄ったのだった。それまで柳田を訪れた和人はいなかった。
当時の滝上への来往者は柳田初太郎にずいぶんとお世話になったと町史にも書かれている。地理案内などに、無くてはならない存在だったに違いない。

滝上には本州各県から大勢の入植がありましたが、朝倉さんの北海道への入植には訳があり、それは北海道未開地処分法に原因があった。当初未開地の処分には入植しなくても無償で払い下げを受けることができた。朝倉さんの伯父が渚滑にすでに入植し成功していて、故郷に帰って話をしているうちに「団体を作って土地を貰いそれを売って山分けしようじゃないか」と話が進み31戸の名義を並べて申請した。ところが法律が変わり実際に現地へ入植しなければ土地はもらえないことになった。そこへ許可が来たから高知では大変な騒ぎになり、朝倉さんの父も最初から入植する気はなかったので、断るものが大勢出てしまった。しかし何人かは行きたいものがいて、血気盛んな朝倉少年には夢があった。狭い四国の土地よりは、道がなかろうが、クマが出ようが新天地は北海道しかなかった。おやじがいかないならば俺が行くと父を説得したのである。彼は未成年で許可を受けることができなかったが決意は変わらず、許可がなくとも俺は行くと、住み慣れたふるさと、暖かい父母の懐を離れたのが明治41年(1908年)4月であった。というわけです。土佐のいごっそ(頑固者)らしいエピソードであります。明治の時代、本州の各地から極寒の北国に来る決断をすることは生半可ではできなかったと思います。途中、厳しさに耐え切れず戻ってしまう人たちもいたわけですから、しかし先人の方々が、艱難辛苦に耐え抜いて、不撓不屈の精神で原始林を切り開き畑を作り、道路をつけ産業を起こし町の発展に努めてこられたからこそ今日の滝上があるわけです。あらためて先輩諸兄、そして先人の方々のこれまでのご苦労に対し、感謝を申し上げるものであります。

この機会に町史や郷土館などで古い資料を開き、100年前の情景を想像してみることも価値あることではないかと思います。

「実践酪農学体験ツアー」

9月8日から10日間、酪農学園大学酪農学科の一年生11名が町内8戸の酪農家にホームステイし、酪農学を体験しています。単位取得のためではなく、将来酪農に関する仕事に就きたいという意欲ある学生が夏休み期間を利用し、この実践ツアーに参加しているのです。
酪農学園大学酪農学科の一年生が作業している写真
一輪車で藁を運んでいる写真
子牛にミルクをあげている写真
生徒が作業している写真
牛舎で作業している写真
子牛にミルクをあげている写真
本格的な酪農体験は初めてという学生がほとんどですが、我が家に入った学生は朝5時前から起きて家族と一緒に牛舎の作業をしています。歓迎会の挨拶で述べましたが、頭で学ぶ大学の授業とは違う、仕事を通じて体で覚えることの重要性を感じ取ってほしいと思います。受け入れ農家との交流を通じて農業・農村の魅力を知ってもらい、農業への理解を深めてもらうとともに府県出身者8人、道内3人の学生諸君に滝上町のことを知ってもらい、将来滝上町の応援団になってくれることを期待しています。できるならば、意欲のある学生には将来酪農ヘルパーや担い手として、この町で活躍してほしいとの期待もあります。この取り組みに賛同し学生を受け入れていただいた農家の方々に感謝するとともに、今後とも大学との連携を深めていきたいと考えています。

滝上町長 長屋 栄一

お問い合わせ

総務課 庶務係

〒099-5692

北海道紋別郡滝上町字滝ノ上市街地4条通2丁目1番地

電話:0158-29-2111

FAX:0158-29-3588

本文ここまで

ページの先頭へ